It is never too late to be what you might have been
George Eliot
なりたかった自分になるのに、遅すぎるということはありません
ジョージ・エリオット
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<ちょっとだけ英文解説>
・what you might have been
might はかなり婉曲な「だったかもしれない」という意味の助動詞。
「あなたがそうだったかも知れないもの」が直訳です。
そうだったかも知れない、そうなっていたかも知れない者。つまり、なりたかった自分、という意味になります。
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ジョージ・エリオットは19世紀イングランドの女流作家です。男性名前ですが、これはペンネーム。夫…というか、事実上の夫の名前がジョージで、それをペンネームにしていたようです。
女性でありながら男性名前をわざわざ使ったというのは、当時の社会や文学界に何かもの申したいところがあったのでしょう。あるいは女流作家と呼ばれる事に対するある種の抵抗だったのかも知れません。
なにしろ1850年代に妻子ある男性との交際、親族の非難にもかかわらず事実婚に及んだというのですから、強固な意志と行動力の持ち主です。
事実上の結婚生活は、事実上の(しつこいようですが、他に何と表現してよいか思いつかないので)夫君が他界するまでの20年間続いたそうですが、その夫の他界の2年後には20歳も年下の実業家男性と結婚し、世間を仰天させたのだとか。
現代で起きてもTVやインターネットを連日にぎわすような大スキャンダルですね。
でも、よく言われるように、他人は意見はくれますが助けてはくれない。自分がこうしたいと願うことがあれば、たとえ世間が非難しようが、自分で選択しなければならない時があるわけです。
誰しも死ぬ前に「ああしておけばよかった。」と後悔したくはないはずですが、不思議なことにほとんどの人が「こうしたい」と思った方向の選択をせずに後で後悔したりします。
もしかしたら私達は、願うことは叶わないもの、とどこかで諦めてしまっているのかもしれませんね。
なりたかった自分になろうと選択するのに、遅すぎるということは決してない。まさに名言だと思います。
もしもその選択をしたのが、人生最後の日だったとしても、選択しなかったのとはまったく違うのではないでしょうか。
まさにジョージ・エリオットの人生は、自分がなりたいと(またはやりたいと)願った姿に、自分で選んでなっていった一生だったと言えるかもしれません。